作家というもの
作家というものは、一体どのようにして人の人生、幸せや不幸せについて想像するのだろう。
村山由佳さんの本を私は初めて読みました。
14歳の少女が主人公です。少女といっても、親の愛情を知らず、不登校、援助交際と彼女の過ごしてきた時間は過酷で、誰もが通る道ではありません。
登場人物は、はっきりと善と悪に分かれている。この小説はシリーズになっていて、善側の人物それぞれが主人公として別のストーリーをもっています。
私は、この小説がシリーズであること、そしてシリーズの最後の作品だとは知りませんでした。そのため、最後まで落ち着かないまま読みました。
どこかで、どんでん返しが起きて、少女は奈落の底へ突き落されるのではないかと冷や冷やとしていたのです。
小説は、ハッピーエンドです。心配は杞憂でした。少し陰があって、スーパーマンのように強くて、とてもとても察しのいい優しい男性と、彼を取り巻くとびきり善良な人たちが、少女を救い出し、未来をくれる。
終わり方はどこか少女漫画を彷彿とさせるものですが、読後感は悪くありませんでした。
徹底的に救いのない世界を描いた小説は、読み終えても数日はざらざらとした感覚が自分の身体から離れず、暫く引きずってしまうので『天使の柩』の終わり方に安堵したのです。
彼女の淡い恋も、将来、きっと実るだろうと想像させる終わり方。
どんなに悲惨な状況でも、人間生きていれば、どこかで必ず救いはある。そんなメッセージが込められているのでしょうか。
少なくとも、この小説では、絶望からの脱却が描かれています。著者は絶望を、少女の容姿。両親の破綻した夫婦関係。母親と祖母との厳しい嫁姑関係を原因として描きます。
ふと思い出したのが、桐野夏生と貴志祐介の小説です。*1桐野夏生の作品では、今回と同じように不幸な生い立ちで社会から外れてしまった主人公が罪を犯してしまいますが、彼女の絶望には救いが与えられません。
貴志祐介の『悪の教典』は、そもそも主人公がサイコキラーという設定で、救いそのものを必要としていない。
ハードボイルドとかサイコ・ホラーというジャンルでの作品だから、これらを並べて考えること自体おかしいのですが、ふと、すごいなあと思ってしまったのです。
普通に生活していたら、なかなか触れることのない暴力的な闇の世界を細密に描写できる作家というものに驚嘆するのです。
人の不幸や残酷さを読む人の心理について
数年前になりますが、山口真由さんの本を読みました。タイトルは『前に進むための読書論』です。サブタイトルが「東大首席弁護士の本棚」。
未就学の子供をもつ母親に大変支持された本らしい。どんな本を読ませたら、山口真由さんのようなエリートに育てられるのか。
幼少期に山口真由さんの読んだ本を自分の子供にも読ませたい。そんな思いで読まれたそうです。
読んでびっくりしました。大好きな本に前述の貴志祐介の『悪の教典』が挙がっていたのです。スカッとする、というようなことが書かれていました。
勉強で疲れた時や、試験が続いてストレスが溜まった時に読むのだとか。興味本位で私も読んでみました。貴志祐介の『悪の教典』。怖くて何日も電気をつけたまま寝ました。
私はスカッとはしませんでした。そう言えば、貴志祐介さんも京都大学卒のエリートです。ホラー小説は、別脳で読むものなのかもしれません。別脳?私の造語です(^-^;
全く別の世界だと思って読めば楽しめるのかもしれない。ついつい現実世界の中で想像しながら読むと、どす黒い血がリアルに沁みついて取れない気がしてくるのですが。
キリンの子 鳥居
主人公の少女、茉莉と重なって思い出したのが『キリンの子』という歌集です。鳥居(トリイ)という女性の短歌集です。
彼女は、セーラー服歌人、として知られています。両親が離婚後、母親と二人で生活するのですが、母親は精神を病んで自殺します。
その後、養護施設へ入るのですが、虐待を受けます。学校へ行くとそのまま教室の掃除用具入れに入って、虐められないように息をひそめて一日を過ごす。
同じような境遇の親友が線路に飛び込んで自殺します。本当の話だろうかと疑いたくなるような過酷な状況の中、彼女は短歌と出会うのです。
彼女の紡ぐ三十一文字の世界は、まさに澄徹。
セーラー服は、彼女のような境遇の子たちが安心して教育を受けられる環境を整備してほしい、との訴えです。成人しても、彼女は公の場には、セーラー服で出ていたそうです。
おわりに
アプリでの読書記録をとっていましたが、先日、iPhoneが故障して、データがすべて消えてしまいました。
使っていたアプリは「ビブリア」です。数年分の読書記録が全部ぱあです。痛い・・・
「天使」シリーズ
*1:現役の作家の方の名前を書く時には、つい敬称をつけるべきか省くべきか悩んでしまいます。今回は、敬称略で書くことにしました。