初回投稿日:2019/11/25/204949
気が付けば、困窮と不安の日々をもう半年続けたことになります。いい加減、飽きてきました。
そろそろ、これからのことを別の方向から考え直してみなければならないようです。
一人暮らしを始めたときのこと
いつかは帰らなければならないと思っていましたが、母と二人きりの生活を上手くやっていく自信がなかなか持てません。
父が亡くなるまでの母は、あまり自分の考えを口にすることはなかったように思います。それでも親子喧嘩はよくしていた気もするので、はっきりと言い切ることはできませんが。
父が亡くなって暫くは、母はとにかく、自分の感情を話しませんでした。表現が難しいのですが「人任せ」になってしまったのです。
当時の母との生活は大変でした。会社から戻ると玄関先に母が待っています。靴を脱いでいる私に向かって、その日一日あった出来事をずっとしゃべり続けるのです。
他愛もない話です。初めて電球が替えられたとか、時計の電池が交換できたとか。そして時間と共に、気性が荒くなっていった気がします。
言葉遣いが乱暴になったり、命令口調が多くなったり、とにかく気が短い。常にいらいらしている感じです。
母と二人の生活は、気ままでもっと楽しいものだと思っていた私は、父の49日が終わるころ、一人暮らしがしたいと母に伝えました。
勢いでマンションを決めて、契約書を差し出して談判です。
そのとき母に言われたことが二つあります。
一つは、必ず週1回は家へ帰って母と食事をすること。
もう一つは、部屋に花を飾ること。経済的にも精神的にも、花を飾る余裕がなくなったら、引き上げて家へ戻ること。
父が亡くなった2年後に祖母が亡くなりました。お葬式の席で従妹から、母が寂しいと話していることを聞きます。
年始早々
昨年の年末から年始にかけて、久しぶりに母と大きくぶつかりました。原因は些細なことです。ここに書くのも恥ずかしい。
お互いにイライラしていたのだと思います。話は、あらぬ方向へ進んで無駄に大きくなっていきました。
突然、「あなたは私を見捨てるのね。あなたはお母さんと縁が切りたいのね」と母が叫び出したのです。こじれたまま、年始の挨拶に来た妹家族と一緒にマンションに戻りました。
それから、仕事を辞めるまで私は実家に戻らず、電話もかけませんでした。ただ、母が体調を崩したりしていないか常に心配で、妹にそれとなく様子を確かめてもらっては、LINEで状況を聞いていました。
決断の時
気が強いとはいえ、母も高齢になってきました。今は近くのスイミングスクールに通ったり、幼なじみや近所のお友達とでかけることも多く活発にしていますが、いつ何があるか分かりません。
本当は、経済的にきちんと自立してからにしたかったのですが、この状況では、いつまでたってもそれは難しい。
母がやがて思うに任せない状態になる前に母娘の関係を立て直したい。楽しい思い出を少しでも多く作って、しかるべき時に備えたい。そう思いました。
今がその時ではないだろうか。ぐずぐずといつまでも決断できずにいる私に、神様が現在の状況を与えて、背中を押しているのではないだろうか。
母に、戻ろうと思う、と伝えることにしました。
母の反応
意を決して、母に電話をかけました。直接会って話すべきだと思い、実家を訪ねました。
母の顔は忽ち険しくなります。「遅い!」驚くほどきつく大きな声。その後、新年にどれほど腹が立ったか。娘の思いやりのなさに絶望したか、呪詛のような言葉が続きました。
想定外でした。母のことを思う気持ちは、どこかで伝わっていると思っていました。
母から家計簿を捨てると連絡があったときも、その家計簿を譲ってほしいと話したし、妹に頼んで様子を見に行ってもらったり、常に頭から離れないでいることは伝わっていると思い込んでいたのです。
だから、私が戻ると言ったら、手放しで喜んでくれると、どこかで簡単に考えていた。
自分の甘さと独りよがりに絶望します。
迷い
そもそも、母とぶつかるときは、いつも根底に思いが伝わらないもどかしさがありました。
肝心のところで心がつながらない、理解されないもどかしさに、子供の頃からずっと苦しんできたのです。
私の前に、母は一度死産を経験しています。男の子だったそうです。小学校3年の時、母方のお墓参りの途中で聞きました。
「お兄ちゃんか…欲しかったな」と言う私に「バカなことを。もし、ちゃんと生まれていたら、あなたなんか生まれてないよ」と事も無げに言ったり。
勉強の苦手な妹のことを「あなたは、妹のおかげで、楽に優等生になれてよかったでしょ」などと言ったり。
妹には「お姉ちゃんが、出来の悪い妹のせいで学校で恥ずかしい思いをしている」と言ったこともあります。私が「そんなことはない」と言うと「あなたは黙っていなさい」と叱られて。
そして母は、言ったら、あっさり忘れてしまい、私は、いつまでも覚えている。
些細なことでも間違いの許せない私は、いつだったか、母に「親でもまちがったらちゃんと謝って」と詰め寄ったことがあります。
母は「親に向かって」と私の口をつねりました。そんなやり取りを、今でも覚えている自分のことが不安になります。
そして、母が言ったのです。「お正月、あなたがお母さんに食って掛かったとき、ああ、この子はお母さんを見捨てるんだ。もう帰って来るつもりはない。」
妹の世話になるわけにもいかないから、しかるべき時が来たら施設に入る。
そうか。と思いました。今私は、経済的に不安だから、実家に帰って、落ち着きたいと思っただけかもしれない。母のことを心配している、というのは、ただの言い訳だったか。
母の話を冷めた思いで聞きながら、実の母でさえ分かり合えない、と何とも言いようのない孤独感にさいなまれていました。
けれど、そこから「それで、いつ帰ってくるの」
言いたいことを言った母は、急に口調を和らげて聞いてきます。
「もっと早くに決断してくれたらリニューアルもちゃんとできたのに」
また、そうか、と思い直します。「別にこのままでいいわ」と言いましたが、何年も使っていない二階は、窓もドアも建付けが悪くなって、開け閉めできなくなっています。
だれだれに連絡して、不用品も引き取ってもらって、などといそいそと予定を立て始めている母を見ながら、もう引っ込めることのできない自身の言葉の重みを今更のようにかみしめました。
今が一番若い
小学校4年生の時。飼っていたひよこを私の不注意で死なせてしまいました。そのときに、母が随分と気遣ってやさしくしてくれました。
私は「お母さんのことを世界で一番愛しているのは私。お母さんが死ぬときに、お母さんは必ずそのことに気づくはずだわ。私は最後までお母さんのそばにいる」と思いました。
いつのことになるか分かりませんが、かならずその時はやってきます。母に寄り添うなら、今が最後のチャンスだと思いました。
今ならまだ、お互いに思いやって、優しい時間を過ごすこともできるはず。その時間が、それから先の支えになるはず。
細いレールの上を脱輪を繰り返しながらここまで来ました。進む道は、もうそんなに分かれていない気がします。
後悔しないように、これから先の未来を創っていきたい。大丈夫。今がその時だと思えるから。
微妙なタイミングで、いつも私の願いは叶うのです。
以前にこんな記事を書きました。
i-am-an-easy-going.hatenablog.com
ひよこの話はこちらに書いています。
i-am-an-easy-going.hatenablog.com
母の家計簿は、私にはとても大切なものです。
i-am-an-easy-going.hatenablog.com
決断を後押ししてくれる言葉は「今が一番若い!」
i-am-an-easy-going.hatenablog.com