迷子の日記。行ったり来たり。

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【短歌】桜の季節に読みたい短歌

初回投稿日:2020/03/24/235736

今年は、コロナウイルスで何もかもが変わってしまいました。日常生活は不自由で戸惑うことばかりです。

 

それでも、どんな状況であっても桜は毎年、変わらず咲きます。近くの川沿いの桜の蕾も次々とほころんできました。

さくらさくらさくら咲き初め咲き終わりなにもなかったような公園

俵万智『サラダ記念日』昭和62年

「本当にそうだなあ」と納得した歌です。つぼみが色づき始めるとニュースでも盛んに開花予定が放送され、待ち侘びていた桜の花は、そこから一気に開きます。

 

折しも菜種梅雨。次の休日にお花見・・・などと予定を立てた時に限って雨。

 

そんな経験は、誰にでもあると思います。

 

祈るように天気の行方を見守りながら一日一日を過ごすのですが「これで今年も見納め」と最後のお花見のチャンスを見送った(あるいは、堪能した)あとは、ふっつりと記憶からも視界からも消えてしまう桜。

 

あんなに華やかに咲き誇って、狂おしく散っていくのに、入れ替わりに芽吹く葉が、一瞬にして桜の木を日常に溶かしてしまうようです。

 

昨日まで華やかだった公園は、気づくといつもと変わらぬ風景に戻っている。

 

いつも桜の頃になると感じていたことが、この一首に丸ごと全部おさまっているのに感動しました。

 

今年は、例年以上に咲き始めも、咲き終わりも印象深く心に刻まれそうですね。桜。

 

葉桜を見に行くならば雨上がり私でなくてはいけない人と

同じく俵万智さんの作品です。

 

花の散ってしまった桜の木。裸木になるわけではなく、青々とした葉が生い茂るので意外に私たちは、あっさりと季節の移ろいを受け入れます。

 

満開の桜は祭り。

 

そして、雨は、桜花を新緑と入れ替えて、私たちを祭りから日常へと戻します。

 

雨が上がったあとの桜は、不思議と祭りの終りのむなしさを感じさせません。葉桜は、すっと、日常に私たちを戻してくれる。

 

けれど、雨上がり・・・雨が止んだ瞬間はどうでしょう。

 

咲き終わりの桜。濡れて地面に落ちた花びら。きっと祭りの終りの瞬間を見るのは寂しい。研ぎ澄まされた孤独な瞬間は誰かと一緒にいたい。

 

一緒に過ごす時間として、あえてそんなタイミングを選ぶのは特別な人だから。「私でなくてはいけない人」は、私にとってただ一人の人なのです。

 

さくら花幾春かけて老いゆかん身に水流の音ひびくなり

馬場あき子『桜花伝承』昭和52年

桜の季節になると必ずこの歌を思い出します。以前にもご紹介したことがあるのですが、大好きな歌です。

 

先日、友人と食事に出かけました。アルバイト先で知り合った方です。

 

おでん屋さんで仕事のことなど話しながら、お互いの距離を縮めます。シフト勤務であったため、同じ日に採用されながら、ゆっくり話すことなく別れてしまったので、何となく探るような感じでした。

 

同世代で、お互い独り身であるので、それでも、近しくなるのにそれほど時間はかかりませんでした。

 

とは言え、彼女はシングルマザーです。何となく人生の重みが違うなあ、と妙な引け目を感じます。

 

そんな彼女が私に聞いたのです。「好きな人はいないの?」

 

恋なんてすっかり忘れていました。そんな感情、パワハラ会社に長くいすぎて、とっくに消え去ってしまった。

 

「ええっ。私はもうとうに、終わっているわ。」

 

「恋は必要よ」彼女は言います。彼女は、最近、それでも一つの恋を終わらせたらしい。

 

「もう会わないって決めたらね、どうしようもなくね、まだ好きなのよ」間接照明でも涙ぐんでいるのが分かりました。

 

さくら花幾春かけて老いゆかん身に水流の音ひびくなり

 

恋する気持ちに終わりはないのです。幾つになっても、人を恋うることを堰き止めたりしない。水の流れのように、自然のままに。

 

桜が見える場所ではありませんでしたが、ふいにこの歌を思い出したのです。素直に生きたいと思いました。この先に何があっても、なくても。

 

【過去の短歌紹介】  

i-am-an-easy-going.hatenablog.com