初回投稿日:2019/11/14
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このあいだの野菜炒め
お昼に、残り物のマッシュルームとレタスと豚肉があったので、簡単に野菜炒めを作りました。
塩コショウで味をつけただけの本当にシンプルなものです。マッシュルームと豚肉は、前日に焼きそばにした残りです。
その日はなぜか、豚肉のパックを見て、急に手が止まってしまいました。
血
お肉に滲んでいる血が目から離れない。突然、ああ、この子は生きていたんだ、と感じて胸が苦しくなります。
昨日は平気だったはずなのに。普通に、パックから数枚のお肉を取り出して、マッシュルームともやしも加えて、そば玉と一緒に炒めて・・・
「生きていた」という思いが頭をかすめた瞬間に、私は、自分の命とスライスされた豚の命を比べていました。
何も生み出せていない私は、存在する価値がない。1円も生み出せていないのに、生きていたものたちの命を調理する資格があるのか。
少なくとも、この豚は、自分の命を差し出して、私の命を繋げてくれているのに。動悸がして、嗚咽がこみ上げてきました。
どれくらいコンロの前に突っ立っていたか分かりませんが、ふと正気に戻った時に思い出したのが『ブタがいた教室』です。
いつだったか、テレビで放映していて、何気なく見た作品です。映画のことを考えていたら、少しずつ平常心に戻りました。
描きすぎじゃない?
妻夫木聡さんが主役。先生役でした。ある小学校の6年生の教室が舞台です。 終盤で、児童たちが命について討論します。映画のクライマックス。
決められた台詞がなかったのではないか、と思うくらい子供たちの討論は白熱します。誰がメインの役者で・・・などと主と脇を分けられない。
彼は役者で、彼女はエキストラ? それまでのシーンでは、確かに感じられた存在感が一変して、ドキュメンタリーと錯覚するくらいの迫力。
議題は「豚のPちゃんを生かすか、殺すか。殺すなら、食肉として売るか、食べるか。」
●あらすじ
妻夫木聡演じる小学校の教師は、最近の児童のものごとへの無関心さに悩んでいます。挨拶もろくにできない子供たちは、当然、給食を食べる時にも何も言わない。
彼は児童に「いただきます」と「ごちそうさま」の意味をきちんと教えるため、クラスで一匹の子ブタを飼うことを提案します。飼うにあたっての条件を設定して。
飼育期間は1年。皆が卒業するときに、皆でそのブタを食べること。
最初は飼育を面倒がっていた子供たちは、やがて、生きているブタの愛らしい仕草に愛情を感じ始めます。皆で「Pちゃん」と名前をつけて、積極的に世話をする。
子供たちの手作りの柵は頼りなく、Pちゃんはいつでも抜け出し、学校中を自由に歩き回ります。その姿がまた可愛らしい。
後ろからカメラで追っているので、まさに「こぶたのしっぽ」*1です。♪こぶたのしっぽ ちょんぼり ちょろり♪
卒業式が間近になり、Pちゃんをどうするかを考えなければなりません。情が移ってしまった今、「殺す」とか、ましてや「食べる」などの選択肢は彼らには考えられません。
けれど、卒業したら誰が面倒を見る?後輩に託す?
後輩に託す、ということは、問題を先送りにするということ。無責任なことだと彼らは気づきます。いくら話し合っても結論はでません。
話し合いは暗礁に乗り上げ、考えあぐねた結果、結論を多数決で決めることにします。苦渋の決断です。しかし、結果は同数。
子供たちは、最後、担任である教師に選択をゆだねることにします。「先生はどう思うの?」「(Pちゃんを飼うことは)先生が言い出したんでしょう?」
名前をつけるということ
この話のキーポイントは「Pちゃん」とブタに名前をつけたことではないかと思います。
名付けることで「ブタ」という概念から独立して、Pちゃんは一個の命ある主体になったのです。
分類上のブタは食べられるけれど、一個の独立した命である「Pちゃん」を食すことは罪悪感が勝ってしまって、どうにもできない。
●教育の在り方
子供たちの苦悩は、勿論、愛するものとの別れでもありますが、それより、生あるものの命を絶つことに深く、あるいは直接に関わることへの強烈な罪悪感です。
初めて向き合う、命。そして自分たちの選択によっては取り返しがつかないことになるのだ、という重責と恐れ。
私は、映画を見ているときは、正直言うと「やりすぎだ」と思っていました。子供たちには残酷すぎると。
確かに「命をいただく」ということの意味を知ることは大切なことです。しかしながら、私たちは狩猟民族ではありません。生き物を自ら殺めることと食すことを繋げるのは無理がある。
もし私が、あの授業を受けていたら、今、豚肉が食べられるだろうか。
●今思うこと
現代は、子供たちだけでなく、教師も含めた大人もシミュレーションゲームなどで簡単に殺戮を繰り返すことに馴染んでいる人が多い。
愛玩としての犬や猫には愛情を注ぐけれど、決して彼らは裏切らないし、食材にはなりえない。
私はパワハラを受けた経験があります。それはまるでゲーム感覚でした。一人の裏ボスが、私に情報を与えない。子分のような同期が、私の状況を子細にボスに報告する。
私のデータは盗まれ、やがてアクセス権も奪われ。きっかけは、ある一人の仕事のミスです。全く関係のない私に、彼はその責任を押し付けた。
寝耳に水のできごと。当然、反論しましたが、どうも周りの空気が冷たい。日を追うごとに四面楚歌になっている気がしてくる。
ある日、そのことについて耳にします。「彼が言っていたよ。全く非のないない人間に非があるように思わせる。嘘をついていない人間を嘘つきに仕立て上げる。これは詰将棋の醍醐味だって。」
どんどん理不尽なゲームはエスカレートしていきました。
神戸の小学校教師の事件にしてもそうです。大人とか子供とかではなく、現代人は、他者の痛みを、自分の愛するものでもってでしか感じることができないのでしょうか。
もはや「他者」とは、自分以外を指す言葉ではなく「自分の愛するもの」を指す言葉となり、それ以外は個としての価値をもたない。
そのことを問うているのが、今回の映画なのではないかと、今は思います。
思い出したこと
●うし
牧場にジェラートを食べに行ったとき、牛を見て、友人が「焼き肉が食べたい」と言いました。牛の目は大きくつぶらで、目の当たりにしては到底、私には考えられないことでした。
じゃあ、その後一切牛肉を食べていないか、というとそんなことはありません。焼肉屋で美味しく牛肉をいただいています。しかも、つぶらな瞳もちゃんと思い出せるのです。
●とり
小学4年生の時。夏祭りの夜店でひよこを買ってもらい、家で育てていました。愛らしい鳴き声や仕草にメロメロで、日がな一日撫でたり眺めたりしていました。
段ボール箱に新聞紙を敷いて、その中で飼っていたのですが、ある日「ニワトリ草」というのを見つけます。正式な名前は思い出せませんが、通学路の途中に生えていた草だったはず。
学校から急いで帰って、ひよこの寝床に敷き詰めます。母が「朝、草は冷たくなるから、ぴーちゃん(ひよこの名前。ブタのPちゃんと同じ!)が寒いよ」と言ったのも聞かずに。
朝、母の言葉通り、ぴーちゃんは凍えて死んでいました。その日の体育の授業で、私は貧血を起こして倒れてしまいました。
一日中心の中で「ぴーちゃん。ぴーちゃん」と名前を呼んで「ごめんなさい。ごめんなさい」と謝っていたことは今でも鮮明に覚えています。
近所に一緒に夜店のひよこを買ったともだちがいました。彼女の家では上手に育てすぎてニワトリになってしまいました。
早朝に「コケコッコー」と立派な鳴き声を上げるのが近所迷惑になるからと、ある日、お父さんが決断します。
下校中に彼女がこっそり私の耳元でささやきます。「今日ね、おとうさんがニワトリをシメルンヨ」
「しめるってなに?」
「クビヲシメテコロスッテコト」
コトバが続かない私に「今日は、うちは親子丼。お母さんが、新鮮でおいしいよって」
数日眠れなかったほど強烈な思い出です。
けれど今、私は、良質なたんぱく質を摂らなければ、と鶏肉をせっせと買ってきたりしています。それに、子供の頃は、母の作ったトリのから揚げが大好きでした。
感謝を込めて命を「いただきます。」
思い出を振り返りながら、つくづくヒトは柔軟な生き物だと思います。
『ブタがいた教室』の映画は2008年に公開され、原作は2003年に出版されています。映画も書籍も公開当時、ずいぶんと賛否両論あったようですが、一度は手に取って、それぞれに感じるものを確かめるのはいいことではないかと私は思っています。
少なくとも「いただきます」の言葉の意味は、しっかりと理解できると思うのです。
原作は『豚のPちゃんと32人の小学生―命の授業900日―』というタイトルです。
*1:ずっと「こぶたのしっぽ」だと思っていましたが、「おんまはみんな」というのが正式なタイトルで、2番の歌詞が「こぶたのしっぽ」というそうです。