本当は、2月23日にまとめようとしていたのですが、ぐずぐずと思いを巡らせている間に、2月の終わりになってしまいました。
先月の23日に、生まれて初めて救急車を呼びました。
朝7時過ぎ、母が発熱していることに気づいたのです。
昨年末、それまでずっとお世話になっていた病院から近所の病院(近医)へ転院することになり、最後の処方薬がなくなる直前のことでした。
転院のお願いに伺った際、母が特定難病であり、処方薬が専門医にしか出せないという理由で一旦はお断りされたのですが、「発熱や容態急変時には救急車を呼ぶこと」などを条件に引き受けてくださった経緯があります。まさか、薬が切れた途端にこれほど状況が悪くなるとは思ってもみませんでした。
前日は、夕方の7時くらいから夜中の3時過ぎまでトイレの対応が約40回。これでは共倒れだ、と限界を感じていました。
それでも救急車を呼ぶ直前まで、「私のことわかる?」と聞けば「わかる」と反応していました。しかし、次第に体が震えだし、おでこに手を当てると熱い。30分前には感じなかった熱さです。
「熱があるみたいだから、体温測ろうね」と体温計を脇に挟むと「うん」と頷くのですが、どんどん体から力が抜けていくのがわかりました。
119番通報をすると、受話器越しの声は思った以上に淡々としたものでした。
そういえば、結構はまって見ていた『エマージェンシーコール』(テレビドラマ)でも、必ずしも全員が熱血な対応というわけではなかったな……そんなことを思い浮かべながら、必死に状況を伝えます。
「救急車が着くまでに、保険証・お薬手帳・お母さんの靴を用意しておいてください。サイレンが近くなったら、隊員にわかるよう表に出てください」
母の通院セットは常に揃えてあるので、そこへ通院用のスニーカーをポリ袋に入れて準備しました。自分は起き抜けの格好のままコートを羽織り、母が寒くないよう着替えも用意します。
また、前の病院での最後の診察後、地域包括支援センターに連絡して要介護度の更新やリハビリの手配を進めていたのですが、その初回リハビリ時にいただいた「記録手帳」に母の様子を記録していました。その手帳もバッグに入れました。
5分ほどして、少し離れた場所から救急車の音が聞こえてきました。
住宅地なので、私の姿を認めた運転手さんは、すぐにサイレンを止めて近づいてくださいました。
救急隊の方が入ってきて母に話しかけた頃には、もう母の反応はほとんどありませんでした。
救急車に乗り込むと、すぐに詳細な状況を聞かれました。
昨年からの様子を記録していたあの手帳を持っていて、本当に良かったです。手帳を見ながら正確に説明することができました。途中、隊員の方が「脈が弱くなっているので、酸素吸入させてください」とおっしゃいました。
普段の通院時は片道30分以上、混雑時は1時間ほどかかる道のりですが、救急車は隊員の方の言葉通り、きっかり15分で到着しました。
その間、私の回答を逐次病院に伝えてくださっていたおかげで、母の主治医の先生もすぐに駆けつけてくださいました。
母の処方薬を一般病院用の処方に変えたことが原因だろう、と言うことでしたが、母は、心筋梗塞を起こしており、合併症で尿毒症を発症していたそうです。
意識のない母を目の前にして、担当医から「今後の処置ですが、延命治療はどうしますか」と問われました。
動転していた私は、「気づかなかった。ごめんなさい、お母さん、ごめんなさい」と繰り返していたようで、先生が「気づかなくて当然ですよ。それで(延命はどうされますか)」と繰り返されます。
咄嗟に「苦しまないようにしてください。苦しい治療は結構です」と答えました。
父のことを思い出していました。父は肺がんで亡くなりましたが、折に触れ「お父さんに何かあったら、延命治療はいらないからな。これがお父さんのリビングウィル(終末期医療における意思表明)だ。実際に苦しくなったら、楽になりたくて色々と言うかもしれないが、それは本意じゃない。必ず、延命治療は断ってくれよ」と言っていました。
それでも、いざそのときになると、苦しそうな父を目の前にして「延命治療はいらない」とは言えませんでしたが、父はそんな私を見て、自ら酸素吸入を外して「延命治療はいりません」と主治医に伝えたのです。
母は、万が一の時の希望を一度も口にしたことはありません。85歳。持病も認知症も完治は望めない。父の言葉を思い出しながら、迷うことなく答えていました。
その後、母はHCU(High Care Unit:高度治療室)に入ったのですが、二日後には一般病棟に移りました。看護師さんからは「先生が『一体あれは何だったんだろうね(あんなに重篤だったのに)』と驚いていらしたわよ」とお電話をいただくほどでした。そして2週間後には、近医へ転院できるまでになりました。
転院にあたってケアマネジャーさんから懸念点を聞かれたので、処方薬の件を相談したところ、翌日には主治医から転院先の先生へ直接連絡を入れてくださり、これまで通りの薬を手配していただけることになりました。
2月5日、無事に転院が完了し、今は毎日母の顔を見に通っています。
ある日は、口をぽかんと開けて寝ている顔が亡き父にそっくりで呆然とし、ある日は、母の話す不思議な話にお腹を抱えて笑い、今日は珍しく私がそばにいるのに途中で寝入ってしまいました。
先週末から、とろみをつけないで水分が摂れるようになり、一昨日から食事もとろみをつけないで普通食が食べられるようになったそうです。
私は、母がいない家は静かすぎて、しばらく2階で寝るのが怖くてリビングにヨガマットを敷いて寝ていたのですが、腰痛がひどくなったころには、母のいない日常に慣れてきて自室で眠れるようになりました。
先週のことだったと思うのですが、母が「まあ、お母さんがいない間、ゆっくり羽を伸ばして。やりたいことしっかりやっておきなさいよ」と言うので、ドキリとしてしまいましたが、確かに、入院前の母の介護は過酷でした。退院して一か月もすれば、さらに大変な日々が待っているかもしれません。そう思うと、今のこの時間はとても貴重に感じられます。
それもこれも、母が元気でいてくれると思えばこそ。
救急隊員の方、病院の方、関わってくださったすべての方々に心から感謝しています。
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初めて救急車を利用してつくづく感じたのは、隊員の方へ直接お礼を言う難しさでした。
救急車を降りた途端、待機していたスタッフの方に促されてすぐ事務手続きに向かわねばならず、振り返る余裕もありません。
病院のスタッフの方には折に触れて感謝を伝えられますが、救急隊の方々への感謝は伝えられないまま。それが少しだけ、心残りに感じています。