国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。
『雪国』の冒頭の一節はあまりに有名になりすぎて、かえって小説を読む機会を減らしてしまったような気がします。
かくいう私も、一体いつ読んだか、主人公が「駒子」だったことくらいしか思い出せなかったのです。
本書を手に取ったのは、少し前にNHKで再放送されていた『雪国』を偶然に見たことがきっかけでした。
駒子を演じていたのは奈緒さんです。
ドラマを見るまでは奈緒さんをよく知らず、駒子と奈緒さんが上手く結びつきませんでしたが、奈緒さんの所作の美しさにあっという間に引き込まれていきました。
配信で何度も見返したほど見事な駒子でした。
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久しぶり読み返してみようと思い立って手に取ったのは、文庫本の『雪国』です。
文庫本の魅力は巻末にあると思っています。
新潮文庫の『雪国』には、竹西寛子・伊藤整・堀江敏幸の3名の作家の解説が載せられています。
竹西寛子は昭和48年、伊藤整が昭和27年そして堀江敏幸は令和4年にそれぞれ解説を書いています。
それぞれの時代に、それぞれの時代の作家がどのように『雪国』について解説しているのかを読み比べるのも興味深いです。
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最近、昭和の歌謡曲やドラマ・映画が見直されているようです。
私も何作か、動画や配信サービスで観ました。
多くの作品に、懐かしさを感じる前にモラル感覚の違い、モラルの低さを感じて辟易したことは驚くことでした。
昭和から平成、令和と3つの時代を生きるうち、無自覚ながらも時代の潮流に乗って、好き嫌いの基準さえ変わっていたことにあらためて気づいたのです。
このままだと、川端も漱石も鴎外も…太宰も、日本で名作と呼ばれる作品がいずれ読めなくなるのではないか。
時代にどっぷりと浸かってしまった状態では、名作の名作たる所以が理解できなくなってしまうのじゃないかしら。
ふと不安になりました。
『雪国』を読むと杞憂であることがわかります。
雪深い温泉町の静かなドラマは、その描写の一つ一つが日本語の美しさを教えてくれ、読み終えた時「日本人で良かった」としみじみ思わせてくれる。
読んでいた時間が、贅沢な時間であったと思えてきます。
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先に、巻末の解説について書きましたが、最後の堀江敏幸氏の文章中に
「くにざかい」と「こっきょう」のあいだに陥穽*1がある(以下、略)
とあります。
実は、川端康成は「くにざかい」のつもりで書いていたと、以前どこかで聞いた気がするのですが、学校では「こっきょう」と習っていました。
巻末を見返しながら『雪国』を読むと、ますます新しい疑問や発見を与えてくれるでしょう。
*1:かんせい。落とし穴のこと。