迷子の日記。行ったり来たり。

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二枚目の年賀状

 

今年の年賀状には全て実家の住所を書きました。そして、メッセージも全て同じ「母が元気なうちに一緒に暮らす決心をしました。」

 

引越しの挨拶の代わりです。

 

高校時代の恩師から二通目の年賀状が実家に届きました。

 

今日、久しぶりに実家に帰ると母が「あなた一体なんて年賀状に書いたの?」少し憮然として聞いてきます。

 

見ると、小さな文字がぎっしりと並んでいます。

 

「 おそらく2通目の賀状と思います。私も母と20年同居しました。母が80才の時から101才を目前にした4月に…。晩年は介護も大変でしたが、大好きな母と最期まで暮らせた事は幸せでした。貴女もがんばって。でも、一人ではない。まわりには助っ人はたくさんいる事を忘れないでね。(私も入れてね)早めにSOSを出してね。」

 

確かに母が見たら「私はどうなってるの?」と思う内容です。

 

実際は、実家に帰ると書いただけなのだけれど。

 

恩師は思い立つと自ら教え子に連絡できる、垣根のない人です。それは学生時代からずっと変わりません。

 

進学校で美術の教師であった先生は、どうしても担任を持ちたいと校長に談判しましたが、校長は「担任は、5教科の担当でなければならない」と頑として耳を貸してくれなかったそうです。

 

それが悔しくて仕方なかったと話してくださったことがあります。

 

学生時代には、準備室に学生用のコーヒーカップを用意してくれていて、時々、先生が豆を挽いてコーヒーを淹れてくれました。

 

先生を囲んでコーヒーを啜りながらカンディンスキーやジャコメッティの話をするのが大好きでした。と言っても、先輩たちが話すのを黙って聞いているだけだったのですけれど。

 

1歳しか違わない先輩たちが、とても大人びて見えていたころ、ドキドキしながらそこにいました。

 

「先生のような教師になりたい」という学生もたくさんいました。

 

学生のためのコーヒーカップは先生がご自宅から持ってくるので、奥様がよく怒っていたそうです。私たちは…少なくとも私は、コーヒーカップの価値も分からないまま、ウェッジウッドやマイセンのカップで淹れ立てのコーヒーを啜っていました。

 

先生はハンサムだったので(あ…過去形です (^-^; )、母親たちからとても人気がありました。

 

卒業してから知りましたが、家族関係が上手くいかなくて家に帰りたくない、という学生を自分の家に連れて帰って、自分の家から学校に通わせていたそうです。奥様が毎朝自分の子供と同じようにお弁当を作ってくれていたと聞きました。

 

人に頼ることは愚か、人付き合い自体が上手くない私は、時に不安や孤独に襲われることがあります。

 

母との生活への不安。今の生活への執着。これからのことを思うとどうしようもなく鬱々としてきたりしていましたが、先生からいただいた二枚目の年賀状で、すっきりと雲が去ったようなそんな気分になりました。

 

私にも信じられる人がいます。尊敬する人がいます。思い出すと温かくなる思い出があります。本当にありがたいことです。本当に幸せなことです。

 

【過去記事】

 

i-am-an-easy-going.hatenablog.com