あれこれあってしばらく連絡を取っていなかった友人から、久しぶり連絡がありました。
引っ越しをするのです。
お父様のいらっしゃる実家へ戻ることに決めたらしい。
離婚して、娘さんを一人で育てて。
大切な娘さんは母一人子一人の日常から逃げ出すように、県外の大学に進学したのだと話してくれたことがあります。
その娘さんは、コロナ禍の昨年、無事大学を卒業なさった。
卒業と同時に学生時代から付き合っていた人と結婚をし、就職先もその土地で決めてしまったという。
このご時世だから、卒業式もなかったし、結婚式はもちろんなし。
一度も帰省することなく新生活を始めたそうです。
さまざまな思いが去来しながら、彼女は母親としてできるかぎりの支度をして、娘さんの新居へ送ったそうで、そのときに無理をしたお金が現在の生活を圧迫してしまったのです。
イベント会社の収入は変わらず入ってきても、それでは足りなくて飲食店でアルバイトを始めたのですが、あっという間に緊急事態宣言で副収入の道は途絶えます。
そんな話を聞いたところで、私にはなすすべもなく、ただ、差し入れに一日分の食料を持参するのがやっとでした。
追い込まれている人のことばを真正面から受け入れる度量は今の私にはありません。
毎日毎日気になりながらも、何を話せばいいのかコトバが浮かばなくて時間だけがどんどんと過ぎていきました。
引っ越しを伝える彼女のメッセージには、はしばしに「こんなはずではなかった」という思いがこぼれています。
そんな彼女に、飼っている猫は元気かと尋ねると、ぱたりと連絡が途絶えてしまいました。
無性に気になるのです。
手放したのだろうか。
それともちゃんと誰かに引き受けてもらったのだろうか。
考えているうちにどうしようもなく腹が立ってくる。
やっとの思いで連絡をくれた友人に、わたしは冷たい。
このまま疎遠になれば、きっと後悔する。
考えていても仕方ないので、思い切って連絡しました。
「壮行会をしようと思うのだけれど。都合は合わせます。ネコちゃんは元気ですか?」
こんな内容でメッセージを送る。
返事はありません。
きっとネコは手放したのだ。
誰かに引き受けてもらったのならそういうはずだ。
一体どんなふうにして手放したのだろう。
ネコのことばかりが気になっていると、どうやってでも確かめなくてはいけない気がしてきます。
そんなとき、ポッと着信がありました。
「ありがとう。実家が荒れ放題なので、ネコが落ち着いて生活できるようにするのに必死です。引っ越しまで休みが取れないので、落ち着いたら連絡する」
預かった生命を自分の一存でどうにかしてしまったのかと、責める気持ちになりかけていたのを反省して、心の底から安堵しました。
私たちは、何かに試されているのかもしれません。
「死にたい、死にたい」と口にする友人を前にして無力なだけでなかった自分自身も、彼女も。